高屋友明ってどんな人?
こんにちは。 高屋友明です。私は1971年京都に生まれ、京都で育ち。
学校を卒業後ふらふらとしていましたが、あるきっかけで1994年に大工さんになりました。
大工さんになったきっかけとは、(当時22歳)私は仕事していませんでした。 ぶらぶらしていると街で先輩に出会い、
「仕事してないなら、明日バイトに来て」と、頼まれて ついていきました。何をするのかどんな仕事かも知らずに。
初日はボード(建築材料)運びでした。(1枚12kgぐらい)みんな、2枚、3枚、一度に運びます。私は1枚持ってフラフラ。周りの人に笑われ。
やっと一日が終わり「明日も来てね」と。 次の日も、その次の日も・・・
一週間ほどすると、誰か(たぶん電気屋さん)が私に向かって「大工さん!」 と、呼んでいます。周りを見ても私しかいません。
「そっか、今 私は 大工の仕事をしているんだ・・・」 その時初めて気付きました。(なぜか、うれしかった)
2週間・・・先輩が、大工道具のエアーガンで釘を打たせてくれました。 バン!バン!バン! 感動しました!
ボードに釘を打ち付けて壁が出来上がりました。 もう 感動! 自分で造った壁の家に誰かが住むと思うと
すごく感動! 楽しくて、楽しくて、毎日が・・・
次の仕事を教えてもらい、その次、その次と・・・
1995年1月17日、阪神大震災。
1月17日夜に京都を出発。 テレビで食料、水、が不足。救援物資届かず。ホットドック一本3万円で・・・
私も食糧、水を車に積めるだけ積み込み、売ろうと考え、 地割れ、陥没の道無き道を行き、12時間かけて神戸市灘区。
火事です!「見に行こう!」たどり着くと火がボーボー! おばあちゃんが、木造住宅の2階から見えています。 周りで人々が騒いでいます。
「助けなくては!」 気が付くと知らない人と私は遠くの川からバケツリレーしていました。 でも、追いつかず。
「車に水がある!」それもまき散らしました。 でも、無残にその家は炎に包まれて崩れ倒れました。 みんな 泣きました。・・・
消防車の数より火事の数の方が多いし、 救急車の数よりけが人の方が多いから、 道路も地割れ、陥没、渋滞・・・・
おばあちゃんの家族か近所の方か分からないけど、 売るつもりの食料を全部配りました。 泣いていてもどうしょうもない。・・・
周りはどこもこんな状態。
それから、神戸市の新開地公園で仮設住宅を造りに行きました。 何百世帯と造るのですが、大工さんもいろんな所から・・・
北海道、東北、関東、・・・九州まで。何百人と。
困った事に街中に泥棒が沢山。壊れている家から取り放題です。 大工道具の泥棒もいっぱい。
周りの大工さんの話を聞くと「昨日まで、ガードマン」とか 「昨日まで、運転手」とか、素人だらけ。
大工道具も金づちしか持ってない。とか・・・ 当時、大工さんは人手不足で儲かると思われ、誰でもOKみたいな。
で、その人たちが本当の大工さんの道具を泥棒しながら、仕事を していく。そんな状態でした。
あげくのはてに、私たちの完成させた部屋の窓枠、框、天井、棚、まで 自分(素人)たちが失敗した材料を泥棒していく状態。
その為、24時間作業。 朝8時から夜12時まで大工作業、4時間車で仮眠。
朝4時から昼3時まで大工作業、3時間仮眠。 次、限界まで大工作業。の繰り返し。
その状態 が、2週間。 しかも、風呂がありません。 体は臭いし、顔も、体も、真っ黒!ヒゲは伸び放題!
そんな新開地公園の周りには、被災者の方々がブルーシートの家で、 救援物資のおにぎりを寝ころんで食べながら、「いつ出来上がるの~」 と、
どっちが被災者だ? と思いながら作業していました。 当時、警察も原付に2人乗りノーヘルでやってきて、 「怪我人はいないか?」という状態。
被災者は救援物資の食料が支給されるが、私たちには無い。 餃子の王将で白飯のみ。次行くと、閉まっている。 お腹すいた~
そんな感じで約半年間、神戸で仕事させていただきました。 神戸で鍛えられた私は、自分はもう一人前の大工と勘違いし、
この仕事、一年半で独立の道に進みました。 (親方(先輩)の反対も押切り、大迷惑をかけながら。) いざ一人でやってみると、全然出来ません。
階段の造り方教えてもらってなかった・・・ 床の間ってなに?・・・ 親方に聞けず、本を買いに行き、さっぱり分りません。
親方の現場に夜中忍び込んで、寸法をメモって、自分の現場へ、 あっ!こっちの寸法測り忘れた。・・・ と、しているうちに夜が明けてきます。
又、朝から分かる所だけ作業し、夜中、忍び込み。 ほとんど、寝ずに1か月で住宅1軒完成しました。
(今考えるとボロボロ) なんとか、自信を付け、仕事がもらえれば、滋賀、福井、兵庫、鳥取、大阪。 どこでも、行きました。泊まり込みでも行きました。
31歳。結婚しました。 ずーと 泊まり込みって訳にはいきません。 子供(カワイイ)も生まれ、京都に落ち着き、
時代は、大工さんの給料が下がりはじめ、仕事が少なくなり、 体力も落ち始めてきて、「この先どうする・・・」状態。
大工業界というのは、2千万円の新築を建てるのに大工手間(工賃)は約3%の60万円程度。
後の1千940万円はどこへ行ってるんだ! 水道、ガス、電気、クロス、基礎、足場、材料を合計しても 計算が合わないだろ!
建築って、ぼったくり?!
そこで、みんな職人、力を合わせ、会社を作り、元請けとなり、 お客様に安くて良いものを提供しようと、株式会社 高屋工務店を設立致しました。
職人ばかりで、作った会社なので、ダイレクトに値段が安くて良い作業ができます。
まず、会社を立ち上げたけれども仕事がありません。
どうすれば良いのだろう??? という事で新聞折込みチラシを130万円分撒きました。
新聞折込の入る日の朝は、アルバイトまで雇って電話の前で待機してもらい、私が営業に回れるように自動車で待機。
結果、反応は2件のひやかし電話が鳴っただけで終了。その後 待てども待てども電話は鳴りません。
一朝で、130万円がパーになりました。 ショックでしたね~
もう、お金はありません。新聞折込みも生活費も借金です。 ヤバい~
新聞折込のチラシの残りを自分で夜中にポスティングして廻りました。
さらに、印刷だけ増加して、合計2万枚ほどを 1ヶ月掛けて 自分で夜中にポスティングして廻りました。
反応0です。
そこで、ホームページなら チラシみたいに捨てられる事もなく、1度作れば見たい人がず~と見れるので、
ホームページを作ろう! と、知り合いの知り合いに頼んでホームページを作ってもらいました。
サイト制作業者に「どんなサイトにする?」と、聞かれても答えられません。
何も解ってないからです。
なんとか、作っていただいたホームページですが、又、反応0です。
これは何とかせねば! と、思い
いろいろ検索するとSEO対策をすると上位表示し、見る人が増えて 注文も来やすくなる。という事を知り、
早速、安そうなSEO対策業者をネットで探し、依頼しました。
当時、一番最初にSEO業者に依頼したキーワードは、自分の会社の社名でした。
何も知識の無い、SEOの意味もそれほど解っていない頃でした。
今から考えるとバカですね。
自分の会社の社名を検索して、Yahoo! Googleで1位・・・無意味ですね。
だって、自分の会社の社名を検索する時点で、会社の存在を知っている人なのですから。
知っている人なら、直接電話やメールをしてくるでしょうし。
会社の事を知らない人に、商品名やサービス名 地域 などで検索してもらって、
Yahoo! Googleでの検索結果が上位表示してこそ意味があるのですよね。
そこから、新規のお客様がドンドン流れてくる予定が大ハズレ!
ホームページが完成した事に自己満足していましたが、売上げは0円。
実際にSEO業者に頼んでいても売上が上がらなかったので、業者に頼むお金も無くなり 自分でSEOを勉強することにしました。
本も沢山読んだし、セミナーにも沢山参加しました。
サイトの改造も何百回もやりました。(現在までに掛かった費用は数千万円)それでも、元が取れるサイトが出来上がり、今でも更新中です。
これが、「どうすればホームページから儲かるの?」という質問を多く受け、
その内、「セミナーをしないか」という声が掛り 考えた事もなかったけれどやってみる事にしました。
第1回目 生まれて初めてのセミナー 緊張で声が震え、声がひっくり返り、声が出なくなり、足が震えて・・・ ダメダメでした。
悔しくて、悔しくて。
ですが、場数を踏む事により、慣れも出てきて最近では緊張すらしなくなりました。
私のセミナーに多くの受講者が参加してださって、教えてほしいという人も多数いらっしゃるので、
これをビジネスにしようと、2009年8月 社団法人全日本LPO協会を設立しました。
これが認められ、社団法人全日本SEO協会公認コンサルタントにもさせていただき、
SEO協会のセミナーでは 東京国際フォーラムでも開催させていただき、総勢200名の超満席で公演させていただきました。
最近では、SEO対策を請け負ったり、サイト診断や法人のウェブコンサルティングの仕事依頼も多くなりました。
工務店、コンサルティング業務、SEO対策と日々頑張って働いていると共に、お父さんもとしても子供と仲良く遊んでいます。
最後まで読んでいただき ありがとうございました。